


自分史



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<オーナーのメッセージ>自分史。
参加したい人だけどうぞ。











今日:











昨日:
Since・・・2006/1/15
内向的で人づきあいが苦手だったから、外で遊んで喧嘩しながら心を割って
話し合っていくというやり方もとても苦手で心配ばかりしていた。
学校で野球のボールを投げた時、山なりの球が女子の頭に当たってその子が
泣いて帰った時、親にばらさないかしら?いいつけないかしら?それより
当たりがわるくて死んだりしないかしら???と何日も落ち込んだわ・・・。
山なりの球が「ポーン」と頭に当たっただけなのに過剰に心配していた。
(少年野球の子が聞いたら爆笑しちゃう程の力のない球なのよ)
でも疑心暗鬼の目覚めは既に始まっていた。小学校低学年からだわ。
何につけても「ああなったら、こうなったら、どうしようどうしよう」と。
心配性、神経質、内向的、運動神経なし・・・もう女子としか言いようが
なかったと思う。今、思えばね。でもいつか直ると思っていたのよ。
自然と直るって思っていたわ。
小学生では、自分が「男」「女」どうでも良かった。
「男性」として扱われる事はあっても、「男性だからやれ!」という責任がなかった。
どっちにしても「子供」だったので女子と男子の境目が曖昧で私は居心地は良かった。
私は学校が嫌いでなかった。勉強も嫌いではなかった。家に篭っている方が苦痛で
学校を休むのは何だか気乗りしなかった。でも激しい男の子の遊びは嫌いだった。
そういう子とは一切遊ばなかった。
一緒に図書館や児童館に行って、紙芝居や粘土で遊んでくれる子を探してた。
でもだんだん仲が良かった子が、スイミングクラブへ行ったり塾へ行ったり
しはじめて、私は取り残される感じがしてきた。
だから当時、心臓が弱かった子と遊びはじめた。心臓の手術を受けた子だった。
激しく動いたりは出来ないから、私としてはもう少し元気に遊びたかった。
だから結局、友達ではあったけれど親友ではなかった。
私はもう中耳炎が激しかったから、スイミングはおろかプールや激しい運動は禁止。
でも調子が良い日は結構あって、そういう時には走ったりしたかった。
心臓が弱い=一緒に走ったりして倒れたら私の責任に・・・。それがわかっていた。
だからその子と一緒にいるのは、私も具合が悪い日を選んでいたと思う。
私は普通の男の子が興味を持つ「争いごと」に全く興奮しなかった。
だから競争が激しくなる高学年になるにつれ、学校は居心地が悪い場所になった。
カセイちゃん様
更新が遅れました。すみませんでした。またぼちぼち書いていきます。
書く事によって私が何者なのかわかって頂ける様な気がします。
メガネさん、お早うございます。
メガネさんの話はよく分かります。きっと本来の姿は”女性”なんでしょう。ただ、
メガネさんの自己分析の基準には若干賛成しかねます。表面に見えることなら、
女っぽい男性は沢山いますね。いわゆる”オネエサン”と言われる人達の殆どが
セックスの際は”たち”だと言われています。女性っぽい仕草とか言葉使い、女性っぽい
といわれる考え方、反応、決め手にはならないと思います。
そこから先はよく分かりません。
ようこそ、カセイちゃんさん。
あたくしの場合、何故だかチン子がついてただけという感じなんです。
とにかく間違いなく「女」だったと今も確信しているのです。
この言葉や立ち振る舞い、運動神経、性格・・・全部女独特のものです。
というか、こういうタイプのノンケ男性を今まで見たことがないのです。
決定的なのは「仕事」の面。
なんでも10人並でいいわーと常に思っていて、前に出て責任取りたくない
というスタンスは崩れた事がありません。
威張りたいと思った事がなくて、仕切るのが一番嫌い。
ボス的存在に絶対になりたくないという。
もう一つ、決定的なのが「瞬間の仕草」です。
びっくりした時の私の動きはもう爆笑ものです。
本当に「キャー、イヤー」という動きをします。
これは演技でなく、もう全く女性ホルモンの仕業。
子供が生めなった事が一番の心残りです。
メガネデブさん、はじめまして。僕は59歳のオジンです。今日は仕事が休みなんですが
昨日早く寝てしまったんで、午前4時に目が覚めてしまいました。
「自分史」、全部読ませてもらいました。感想、「ふーん、、、、」。変な意味ではなく
て、同じゲイでも随分違うもんなんだ、「ふーん、、、」というのが実感です。
大人しい子供時代は似てますね。引っ込み思案でした。引っ込み思案のせいで、自分の
運動神経の良さとか、人より上手に出来ることとかを発見するのが遅れてしまいました。
ゲイとは、ホモとはという定義づけはよく分かりませんが、僕はいわゆる女性的なことと
いうのは大嫌い、オネエ言葉、メガネデブさんの「、、、、わ」の文体も好きではあり
ません。僕にとって女性は異星人のような存在。メガネデブさんと同じくお母さん子で
はありましたが、母親は自分にとっては女性ではなかった。道を行きかう人たちを見ても
女性に焦点が合うことは絶対ない。たまにスタイルのいい、超美人を見ることもあるが
ただそれだけ。
子供の頃から視線の行く先は「太ったオジサン」。コロっと太った同級生にも興味があっ
ったね。僕が子供のころは今みたいに太った人は少なく、「あの人は20貫もあるんだ
よ」なんていうくらいでした。20貫はたった?75キロ。今では小太り程度?そんな
オジサンに憧れていたんです。
それでも普通に家庭をもって子供も自立しましたが、今までの自分が、何といいますか、
ずーっと演技をしてきたような気がします。
今では自分が憧れていた「人の良さそうなちびでぶオジサン」に自分自身がなっていま
す。今では昔みたいな思い入れはなくなりましたが、道行く人の中に、ふっと視線を
向けてしまうのは子供の頃と変わりありません。
ながながとスイマセンでした。
小学校に上がると間もなく、大君というひょうきんな子と友達になったわ。
その子は私がナヨナヨしてても我関せずという感じで面白ければそれでいいと
いう子だったの。私は今も大君と友人なの。そうね、、、キャラで言えば、、、
「ルー大柴」の毒気が抜けた感じね。顔は俳優の橋爪さんに似てるわ。
見てくれより、本質を見抜く方が好きだったの。
未だに結婚していないけどゲイではないの。
その子が私を面白がるものだから、随分救われたわ。
自分にも友人が出来るんだという自信に繋がった。
うわべだけで会話する人はいくらでもいたけど、お互いの家を行き来したり
毎日遊んだりする人はごく限られた人だけだった。
ちっちゃい時の事って、鮮明に覚えていて、保育園時代なんか
特にハッキリ覚えているの。
私はいつも館内にいるのが好きで、園内の広場にはいなかったわ。
とにかくこの時から、もう極端にインドアだったのよ。
3-4歳から既にインドアなんて。ちょっと可愛いわね。
好きだったのが粘土と本を読むことだったわ。
大キライだったのが友人と遊ぶ事。(笑)
人と一緒になんかするのは苦手だったわ。
一緒になんかした記憶があまりないのよ。
女の子とばかりいて、家の中でままごとしてるのが好きだったわ。
お兄ちゃんがよく友人を家に連れてきて、下品な男遊び(くすぐりあいとか)
してるのがもう鬱陶しくて本当に嫌だったわ。
けれど友人が沢山いるお兄ちゃんが、ちょっぴり羨ましかったわ。
私は本当にどうしていつも一人なんだろうと思ってた。
でもお父さんとお母さんがいつも遊んでくれたわ。
お母さんが私にナゾナゾの本をいっぱい買ってくれて嬉しかったの。
私は本を買ってもらうのが一番好きだったわ。
あまり毎日、由美ちゃんと遊んでいたから由美ちゃんのママがちょっと迷惑そう
だったわ。由美ちゃんちは美容院だったから私はパーマの機械とかシャンプー台
でいつまでも遊んでいたわ。女性週刊誌もいっぱいあってずっと読んでたわ。
普通は男の子にとって居心地が悪い場所でしょうけど、私はずっとそこにいた。
お店で遊んじゃ駄目と言われていたけど、こっそりお店を覗いたりして。
由美ちゃんのパパは大工さんで、私の実家を建ててくれたの。
安くて丈夫な家だったわ。だって40年も建ったけど全然平気だもん。
いい木材を使ってくれたんだって。
それでも将来は主婦がいいなーって思ってたわ。
だって由美ちゃんの家にある洗濯機の手回しの脱水装置が羨ましかったし、
ママレンジでばかり遊ぼうと誘うから由美ちゃんの方が飽きちゃってたもん。
信じられないのが家の玄関で私は女の子達をあつめてゴザ敷いて「おままごと」
やっていたんだから。ほとんど毎回「おままごと」よ。
「今日何して遊ぶ?」「おままごと!」と私は譲らなかったのよ。
最初は毛をつままれたまま鋏でチョキチョキと切られてから、剃刀で剃られます。
僕の場合は包茎がすでに太くなってましたので、上口先輩はそのチンポをつまむようにして、
上のほうから剃ってくれます。チンポの周りを剃られるときにはビンビンに勃ってました。
続きを読む
http://debumunetan.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_4e41.html
私は小学校1年生の時の教室を覚えているわ。今もここから歩いて5分の場所。
ほっぺたがペコちゃんみたいにふくらんでて、そりゃもう可愛かったわ。
今でこそ可愛くないけど。
あの時は可愛かったの。自分でもあの時の写真、いとおしいもの。
おめめが大きくてまんまるなのよ。あらいぐまみたいだった。
私はいつも真面目でいい子だったから、先生がご褒美に画用紙を2枚くれた。
それがとても嬉しくて、誇りだったわ。小学1年でもいたずらっ子はいてね。
私はそういう子と遊ばないようにしてた。
そういう子とはなんとなく遊びが合わないって知っていたの。
いつまでも由美ちゃんと「おままごと」やっていたかったけどね。
それもだんだん無理になっってくのでせめて人生ゲームやってた。
とにかくインドアな子だったわ。
みなみさん、残暑お見舞い申し上げます。
わたし女性化してる。でも妻います。そして子供います。
職業は自営。だから遊ぶ暇とかなくてきつい。ストレスたまっちゃうよ(-.-;)
すげー可愛くなって、好きな男に毎日だかれてみたいなぁて思う。
私は東京の下町育ちだったから、お坊ちゃんという子は周囲にあまりいなくて
ガラッパチ風の子が多くて仕切られていた感じね。
だからよく先生には褒められたわ。大人しいから。
今考えれば、男の子としての活発さがなかったんだけどね。
だから体育の時間は憂鬱だったわ。思い切るという事が出来ないから
背は大きかったのに跳び箱も鉄棒も苦手だった。
その代わり、図書室が好きだったわ。いつも時間があると図書室にいた。
外で遊ぶのが好きじゃなかったのはもうこの頃からだったわ。
自分でノートに漫画を書いたり、ストーリーを作ったりしていたの。
皆が校庭で運動していたのに、私は絶対に参加しなかったな。
家庭科は好きだった。あの主婦みたいなかっぽうぎもね。
調理実習とかワクワクしていたのよ。
私が意識して「女言葉」を使い始めたのが「小学校の3年生」だったわ。
3丁目のアパートに住んでいた「渡辺君」という子とフザケて使っていたの。
「あら?このお花は?」「それはひまわりではないかしら?」みたいな
女言葉なんてクドイ!と女性を軽く見たジョークのような感覚だったのね。
きっと。
だからまだ私は心の中では男だったのね。でもそれはそう思い込みたかった
だけで実はもう女性ホルモンが多く分泌されていたのよきっと。
渡辺君はいつまでも女言葉遊びに付き合ってくれてたけど、いつしか疎遠に
なって引っ越していったわ。。。
私は一度覚えた「女言葉」がとても快感で、渡辺君が越した後でも心で
つぶやいていたわ。。。
でもいくら現実がそうであっても、ヤッパリ!「女性に生れるなんて嫌だぜ」と
男の子達はそう言ってたわ。私の周囲の男たちは全員ね。
保育園から小学校に上がる頃まだまだ時代は「男性優位」の時代よ。
「女なんか!」ってスカートめくりされてた。髪の毛ひっぱられたり。
いじめられて、で、すぐ泣いてね。
そういう時代でも私はもう「ああ、女性がいい。女の子になってジャンパー
スカートとか履きたいなー」って思っていたわ。
2件お隣に「由美ちゃん」という1つ年下の女の子がいたの。
毎日遊んでいたわ。私には男の子の友人がいなくってね。
兄はワンパク坊主でね、いっつもドブに発砲スチロールを浮かべて
「いかだごっこ」とかやってて、そのままドブにダイビングしてた。
体中ケガだらけの兄貴。私はそういうのちっともいいと思わなくてね。
まあ、きったない!今度は肥溜に飛び込もうとしてるわ・・・とかね。
月光仮面の真似して、風呂敷を首に巻いて、高い木からジャンプ
したり。
チンポ出しっぱなしで走りションして、近所のオバサンに叱れたり。
蛙の肛門に爆竹しかけたり・・・。
もうとにかく私にとって兄貴は異性的存在だったわ。
嫌がる私にキャッチボールさせて、硬球の球が私の顔面直撃したり。
嫌がる私に四の字固めしたり。。。
私はいつも逃げ出して、由美ちゃんとママレンジで遊んでたわ。
そういう弟を兄貴はどうおもっていたのかしら?
いつか治ると思ってたのね・・・。きっとね
母が強かったのは、勿論「家庭内」だけで、世間では良き母だった。
専業主婦だったから、お金に対しての、感謝の気持ちがなかったの。
自分が何分何円か?という計算をした事がなかったの。
その代わりに子供を2人産んで育てたのよ。
そういう時代だったのね。専業主婦が当前のように多くいたわ。
増してや旦那が「公務員」だったから、余計にそういう風潮に
のまれてしまっていたわ。でも父親がよく言ってたわ。
「母さんが無駄使いしているけど、注意すると泣いて怒るんだ」と。
私は子供だったけど、
「あら、ひっぱたけばいいじゃない!星一徹みたいに」と言うと。
出来るわけないじゃん。。。あれは漫画でしょ、恐いもん。。。
って顔したわ。(可愛いでしょ?うちのお父さん)
私は想像でなく、現実に父のぼやきを見て聞いた。
だから余計に思ったわ。
「やっぱり女性ってオトクなのね。。。」と。
子育てが大変なのはわかるわ。
主婦には時給がないというのもわかるわ。
でもちょっと待って。
「選べる」のよ。
どちらかお好きなほうを選べるの。
いいえ、子育てが一段落したなら、またパートに出れる。
私はいいなと思ったわ。女性っていいなって。おまけに長生きでしょ?
私はもう小学校低学年でそういうところを観察していたわ。
手がかからない「大人しい男の子」・・・。それが私だった。
身長が高かったのは、もう保育園時代だったわ。
私の家族は全員、特別大きかったというのはなかったから
私だけ突然変異的だったみたい。+ 染色体もね。。。
家庭内では「母」がとても強くて、母が全てを取り仕切っていたわ。
柔道が強いとか、警察官だから偉いとか、父は子供に威張っていたけど
典型的な「恐妻家」だった。
夫婦喧嘩はもう「毎日」していたわ。でも結局、父が黙り込んで負けるの。
私は「男」が強い時代はもう終わったんだ・・・と小学校に入学する前に
予感していたわ。だって父が母に言いくるめられていたから。
間違っても「亭主関白」という家ではなかった。
だから「女って得ね!亭主が働いた金を使えるなんて」と羨ましかった。
勿論、友人の家では「思いっきり亭主関白」てのもあったわよ。
でもうちは「恐妻家」だったわね・・・。
そういうのをずっとみていた事はやっぱり現在の私に影響していると思うわ。
母は新しい家電製品を次から次へとローンで買い揃えた。
よその家より、クーラーも乾燥機もいち早くあったもの。
さ迷える超大デブさん。。。
この「自分史」に書き込む事自体、勇気が必要だったでしょうね。
荒らしとか、くだらない人が現れた直後だしね。
私、荒らしなんかどうでもいいの。時間の無駄で汚されたら実費請求するから。
そんな煩わしさを超えてでも書きたい素実話は本当に掲示板の醍醐味よね。
いっつも一人で書いているけど、こんな体験は大歓迎よ。
私はこの「スカート」というタイトルがとても素晴らしいと思うわ。
「スカート」・・・この誇張の無い素直なタイトルに私も歯が立たないわ。
内容もとてもいいわ。わかりやすくて、クラスの様子や親心までもが浮き彫り。
あなたのママ。。。きっと知ってたのよ。あなたの本当の気持ちを。
私の親との世代の差を感じるわ。私は41歳で母が72歳だもの。
多分、うちより若いのではないかしら?
もしよかったら、また書いてね。
【くだらない男子からフィンガー5のマネをよくやらされた】最高の比喩よ。
文才を感じちゃう。
スカートに興味があったのはもう保育園に上がる前からだったわね。
でもね、ママが穿かせてくれるのは短い半ズボンばかり。
とても悲しくて泣いていたのを今でも覚えているわ。
髪も短く切られるのが嫌で、うんと長く伸ばしていたわね。
姉の真似してきちんとブラッシングを欠かさなかったから、髪サラサラだったわ。
元々髪質も細かったし、真っ黒な黒髪じゃなかったから
女子には王子様みたいとかで評判だったわ。
当時アタシは今のように100越えるデブじゃなかったし。
お陰で学校ではくだらない男子からフィンガー5のマネをよくやらされたわ。
オモチャのサングラスまで持ってきてアタシにかけさせるのよ。
まあでも「オトコオンナ!」って虐められなかっただけマシよね。
ある日ママとデパートへ出かけたのよ。子供服バーゲンとかで。
あたしは女の子の服を扱うコーナーを見て、いいないいなと言っていたわ。
ママがくだらない半ズボンを探している隙にアタシ、隣の女の子コーナーで
キュロットを見つけたのよ。
これなら買ってくれるかしら?って。
ママのところに行き「ママ、どう?」って穿いてみせたわ。
「女の子の服だから可笑しいでしょ…」とママが言いかけたのを覚えているわ。
髪も長かったせいか、似合っていたらしいのよ。
「あら、可笑しくないわ。かわいいわね」っていってママはキュロットを許してくれたの。
それからは中学に入るまでずっとキュロットだったのよ。
男の子のデニムの半ズボンより女の子のキュロットのほうが安上がりだって知ったのは
オトナになってからだったわ。
本当はスカートが穿きたかったんだけれど、それでもなんだか嬉しかったわ。
友達とはね、女の子ばかりなんだけど、よくドレスを着て色々なゴッコをやったわ。
ドレスっていっても学校のカーテンやウチから持ち出してきたシーツを
腰に巻きつけて引きずっていただけなの。
大きくなったらウェディングドレスを着るんだと思ってよくそんな絵も描いていたわね。
事実、20数年後にはアタシ、女性としてウェディングドレスを着たわ。
今は昔の綺麗だった面影も消え愛する殿方も去り、どんどん精神が病んでデブになってしまったの。
シリアスが売りだったのに今はコミックでしか稼げないのって悲しいわ。
毎日色々なスカートが穿ける事が当たり前になったのには幸せだと感じているけれどね。
子供だった私。他の子に比べてもいつも「もじもじ」していたわ。
遅くても4−5歳で「ヤンチャ坊主」かどうかって確定されるでしょ。
私には全く「男の子」という感覚がなくって、その他大勢という感覚だった。
その頃はまだ「性別」について深く考えることもなかったし追求されなかった。
運動神経が悪くても「子供だから可愛くていいじゃない?そのうち出来る」と。
周囲もそう思っていて、男の子が当然出来るような事が出来なくてもOKだった。
今でこそ「本音を言葉にする」という作業が出来るけど、あの頃はいつも人の
顔色を伺ってばかりいたわ。
自分の力で何とかしよう!とは全く思わなくて何かあるとすぐにお母さんに言った。
例えば・・・体調が悪い日とか、風邪やささいな怪我なのも大袈裟にしてた。
「ツバつけてきゃ切り傷なんか治るんじゃない?」という兄貴や父の事を
「冷たいわ!こんなにひどい目あわされてるのにー!」と心で思ってた。
お母さんはいつも私を守ってくれた。
多分、家族の中で一番に。
私はお父さんより、お母さんが好きだったわ。
私は重い「ちくのう症」だったのよ。
保育園を卒園する頃は、どんどんひどくなってお母さんがいっつもポケット
にティシューを入れていたわ。私はそれが身だしなみとして当たり前だと思
ってた。
でもよく考えると「4、5歳の子」がティシューを常備しているなんて変ね。
当時は全く考えていなかったけれどね。
私、保育園は大好きだったわ。皆、おもらししたり、牛乳瓶ひっくり返したり
もう滅茶苦茶な可愛さでね。失敗したって誰も叱り付けたりしなかったわ。
注意はされたけど、子供自身初めて経験する事だったから「次から気をつけて」
という程度のものだった。
私はその頃から「几帳面」でね、だらしない事は意地でもしなかったの。
親からの遺伝とか教育でもなさそう。お兄ちゃんはヤンチャ坊主だったから。
きっともう「女性ホルモン」が多く分泌されていたのよ。
いつも綺麗にしていたわ。おしっこしてもうんちしても何だかトイレが嫌で
すぐに出たかったわ。臭かったし、何だかとっても汚い場所に思えたのよね。
男の子っておチンチンをブルブルふるでしょ?あれ、大キライだったのよ。
笑っちゃうくらい嫌いで雫が落ちきるまでじっと立ってたわ。
パンツに黄色いシミがつくのが嫌で。
潔癖症はその頃からだったわ。
私が4歳の時、保育園の健康診断があったわ。
次々と診断の列が短くなっていよいよ私の番になった時・・・。
「あれっ?もう一度よく診せて〜」「ああ〜ああ〜・・・」
「先生、この子の鼻炎相当ひどいですよ」
「そうですか?それではご両親に伝えておきます」
「そうですね・・・お願いしますよ」
その状況とセリフ今でも鮮明に覚えているのよ。
他の子が次々と診断が終わって帰って行ったわ。
何でもないって。
私のお母さんが15時に迎えに来て、なにやら先生と話しているの。
私は「びえん」って言葉の意味がわからなくって。
ただ鼻の穴をじーっと覗いていたから、「鼻がわるいのかなー?」ってさ。
でもそんな深刻には考えもしなかった。まだまだ子供だったしね。
痛みもなかったし。なんとなく鼻汁はよく出ていたけど他の子も鼻たらして
遊んでいたから別に自分だけが相当悪いなどとは思わなかった。
お母さんもなんとなくよく解からないみたいで。
で、早速父親に相談していた。
私は無邪気に遊んでいた。
「鼻炎」なんて自分に関係ないし、小学校に行けば治るでしょ?って。
初めての耳鼻科でも「自然に治る場合が多いから。様子をみましょうね」って。
私は「幼稚園」でなく「保育園」に2年間通ったわ。
お兄ちゃんが「幼稚園」だったんだけど費用が高かったみたいでね。
で、それに懲りた父親が「保育園の方が安いから」という事で保育園
に通わされたの。
「ちっちゃい子供にお勉強させるのは、早いんじゃないか?」という
教育ママ反対のムーブメントみたいな動きも町内であったらしいわ。
幼稚園ではきちんとお勉強の時間があったんだって。
確かに保育園ではお勉強はなかったわ。
人と仲良くするとか、おしっこやうんちをきれいにするとか。
手洗いとか挨拶とか時間を守るとかそういう事を重視してたわ。
覚えているのは折り紙や工作、塗り絵や粘土細工だった。
いわゆる語学や算数をやった記憶がないもの。
保育園って小学校までに礼儀やマナーを覚えさせ、多少「手先を器用に」と
いうポリシーだったみたい。当時はまったくわかってなかったけれどね。
その保育園も兄が通った幼稚園も未だに同じ場所にあるのよね。
時々前を通るけどいちいち感傷に浸ってはいないわね。
ただ「ここにいた時より、素晴らしい人間になろう!」と気持ちは
引き締まる感じね。
保育園の方は子供が少なくて「半分の敷地」になってしまったけれど。
でもなくならないであるのはちょっぴり嬉しいわ。
私の人生をかけた戦いはこの保育園で始まったの。
ここでお医者さんにある事をハッキリ告げられるの。
それがまさか41歳の今でも完治しない病気だなんて思わなかった。
あの頃の感じ・・・そう。道行く人は誰とでもお辞儀をしあってね。
野菜や調味料が足りないとよく隣近所で貸しあったものよ。
今みたいにコンビニなんかなくって。商店街が閉店するのは7時。
だからそれ以降の時間に何かが足りなくてどうしても必要な時は隣に借りたの。
親がいっつも子供を叱っていてさ。私もよく叱れたわ。
隣の子も裏の子もいっつもぎゃあぎゃあ泣いてた。
でも今で言う「幼児虐待」とかとは違っていた。
死に至るような事はしていなかった。
叱れると必ず前のおばあちゃんの家に行ってお小遣いを30円貰って。
いつも私を可愛がってくれたあのおばあちゃん。
ある日、近所の銭湯で心臓麻痺で死んじゃった。
私もその知らせを聞いて「いくいく!」と言ったけれど来ちゃ駄目!って。
私はまだ何も知らない子供だった。真っ白な画用紙みたいな。
男の子のくせに「ママ・レンジ」や「リカちゃんハウス」をねだっていた。
いつも却下された。
お兄ちゃんと言えばいっつも泥遊びしてた。
メンコやベーゴマ遊びをしていたわ。
私は勝負事が大キライでそういう遊び一切しなかった。
女の子とばかり遊んでた。
でもいつもリカちゃん人形も難しいから、ダイヤブロックや粘土で誤魔化した。
私は昭和39年生まれ。この年は「東京オリンピックの年ですね」って
よく言われたけど自分は全然覚えていなくってピントはずれな質問された。
そんな事よりとにかくいつも誰かが誰かと話をしていた記憶があるわ。
家庭内もそうだったし、いつだって近所の人の泣き声や笑い声や歌声
が聞えていた。関わり合いがすべてという感じだった。
いつ何処に行くにも必ず誰かと一緒。一人で行動する事ってなかった。
お母さんが商店街で買い物してる時によく後を追いかけてついていった。
でもすぐに近所のオバサンとおしゃべりをはじめるから私は退屈して
よく泣き出したわ。すると「だからついてきちゃ駄目って言ったでしょ」って。
私はいつもお母さんと一緒にいたがった。
お父さんよりお母さんが好きだった。
お兄ちゃんはお父さんが好きだったみたい。
よくお父さんと遊んでいたもの。
私、自分の記憶があるのって3歳以降なの。
親戚のお姉ちゃんが私を夏タライに入れて「簡易プール」で水遊びした事から。
それはそれは「可愛い」男の子だったわ。写真も残っているの。
私は象さんのお鼻がついたかわいいジョウロで蔓延の笑顔で遊んでるの。
勿論!可愛い「おチンチン」もくっついてたわ。
素っ裸で夏の日差しをたっぷり浴びた私よ。
昭和42年の夏よ。
私は幸せだった。皆に可愛がられた。お家は決して「裕福」じゃなかったけど
愛がいっぱいあったわ。お母さんもお父さんもお兄ちゃんも私を大好きだった。
近所のおばさんにまでだっこさせて!って言われるほどだった。
近所には私と同じ年頃の赤ちゃんがいっぱいいたわ。
お母さんが小学生の私にある日言ったわ。
「あなたは本当に手のかからない大人しい赤ちゃんだった。女の子みたいだった」。
お兄ちゃんがやんちゃで疳の虫が強かったから、余計にそう感じたらしいわ。
あら?太郎さん。やっぱり全部削除してしまったのね。
私、あなたの書き込みとても好きだったのに。。。
もし良かったらまた書いてみて下さいね。
ここは皆が自由に自分の事を書く場所だもの。
私、何かにつけて不安になる度ごといっつも思うようにしているの。
「「「人間なんか所詮ちっぽけな存在」」」
生きるの死ぬの、ホリエモン逮捕だの毎日やってるけど本当に小さい事。
人間同士、比べるなんて本来馬鹿みたいな事なのよ。
だって人間って生まれた時点で「「「不平等」」」だもん。
よく「人間誰しも平等」とか言うお馬鹿がいるけどとんでもないわよ。
「「「人間なんて不平等」です!だって寿命からして違うじゃんね。
お友達に恵まれた人もいる。
あんまりお友達いない人もいる。
私だって高校生の時、誰も友人なんていなかったわよ。
早くつまんない学校出たいなーって毎日思ってた。
電車が恐いなら乗らなくていい。
繁華街なんか実際歩いたら人ごみでくたびれるだけ。
焦るなんて馬鹿らしい事よ。
増してや自分に責任を与えて克服するなんて必要ないわ。
ゆっくりでいいの。
1日1日、穏やかであればそれでいいのよ。
私もサムソン高橋氏の事は全く知らないんです。
彼は私を見かけた事があるといつか書かれておりましたね。
でも多分、サムソンやGは読んでいると思うのよ。
だからきっと大丈夫よ。
私が常に思うことはひとつ。
人は人。いつまでも追いかけたりしない。
それよりも自分が生きているんだという足跡を残すという事だと思いますよ。
それが最終的に自分の為になるし、そういう風に乗ればキレイになっていく。
抽象的で解りにくいかしら?
見られてるっていう緊張感こそが「生きている」という意味なの。
それはどうしたって「職場」や「職場の人間」という事になってくるわよ。
「職場の環境」って人生の中で最も重要だと思うの。
仕事ってしないわけにいかないもん。
だからこそ自分にピッタリの仲間と一緒にお仕事したいわ。
去っていった友人はとりあえず置いといていいのよ。
新しい友人。新しい環境。新しい自分らしさ。
これが一番いいのよ。
精神安定剤を使いすぎたら駄目よ。
私のように恐ろしい「副作用」に悩まされるだけ。
ならばどうしたらいいか?
思いっきり愚痴るのよ。
思いっきり怒鳴るの。
出来なければ「書きつける」の。
ストレスを吐き出すのよ。
カッコつけて「病気だなんてみっともない」と責めないことよ。
見栄なんて100円玉より価値が無いわ。
抗不安薬、抗欝剤、睡眠薬に限らず、他の薬でも食品でもそうよ。
体にいいものを取り入れて、毒物を排除する事から健康を手に入れるの。
私のお話は他でもいっぱい書いてるから似たような経験を持ってる方
お気軽に書き込んでね。
私ね、自分の事をポツポツ書こうと思うの。
わざわざ「掲示板」に書くことないんだけださ。
でも自分だけが書くというわけではなくて。
誰でも参加していいし。
書ける内にポツポツと。